「福田ヨシ先生のおはなし」(紙芝居)
(1) 松江ろう学校と盲学校をつくられたのは福田ヨシ先生ですね。
ヨシ先生が、どのようにしてこの松江に、全国でも11番目の私立盲唖学校をつくられたか、お話しましょう。
ヨシ先生は、明治5年に鳥取市で生まれました。小さいころ、松江に引っ越し、お兄さんの平治氏は印刷業をして成功しました。
小さいころから大変優秀だったヨシ先生は、わずか18才で小学校の先生になりました。
(2) 明治30年
ヨシ先生が本庄小学校の先生をしていたときのことです。
毎日学校にきて校庭の隅からじっと様子を見ている女の子がいました。(石橋ハル)
その子は耳が聞こえないため、みんなといっしょに勉強することができなかったのです。ヨシ先生はその子を何とかしたい、学校でみんなと同じように勉強させたいと強く思いました。
(3) ヨシ先生の兄、平治先生もまた、洪水で孤児となった子どもたちのために育児院をつくるなど福祉への志の高い方でした。
ヨシ先生はお兄さんの平治先生の励ましを受け、盲ろう教育をしようと決意しました。
そして、京都にある盲ろう教育の専門学校(京都盲唖院)があると聞き、自分も盲唖学校をつくろうと思ったのです。
(4) 明治31年
ヨシ先生26才の5月、8年間つとめた本庄小学校をやめて、盲ろう教育の勉強をするため、京都へ旅立ちました。
(5) 明治33年
京都での勉強のあと、さらに勉強するため東京盲唖学校でも、実際に教員として授業をしながら1年間、研修し、専門性を高めました。
(6) 明治38年5月20日
松江に帰ったヨシ先生は、兄、平治先生の援助を受け、松江市母衣町に私立松江盲唖学校を設立しました。
生徒はろう生徒7名、盲生5名。先生はヨシ先生を含め7名でした。
(7) 念願の盲唖学校を開校したものの、その経営は大変でした。
ヨシ先生は生徒を教えるかたわら、素封家(お金持ち)や大商家を回り、寄付を集めるのが仕事でした。
しかし、そのころの日本は日露戦争後の不景気と盲ろう者への偏見により、思うようにお金は集まらなかったそうです。
(8) 明治40年
第1回の卒業式が行われた翌日、ヨシ先生のところに県の役人がおとずれました。
「皇太子殿下(のちの大正天皇)が島根県を視察され、盲唖学校にも御遣いが来られる。そのため、知事夫人が校長になり、ヨシ先生は一介の教員となるように。」
ヨシ先生は学校の経営安定のため、これを受けることにしました。
(9) 明治40年
皇太子の御遣いを校長を先頭に教職員と生徒一同が迎えました。福田ヨシ先生は一介の教員として出迎えざるを得ませんでした。
そして、ヨシ先生は二度と校長になることはありませんでした。
(10) 明治44年
さまざまな形で補助金や奨励金が下り、新校舎が外中原町に完成。財団法人私立松江盲唖学校が立派に整いました。
生徒はろう生23名、盲生13名。職員は8名でした。
ようやくヨシ先生の願いが実を結び、花開きはじめたのです。
(11) 明治45年11月28日
せっかくととのった盲唖学校で、もっともっと専門の授業を充実させたいと思っていた矢先、ヨシ先生の体を病魔が蝕みはじめました。
そのころは、全財産を盲唖学校のために使い果たしていたヨシ先生は寄宿舎で生徒とともに寝起きしていました。
みんなが見守る中、11月28日、みぞれのふる寒い夜、ヨシ先生は寄宿舎の一室で帰らぬ人となったのです。
まだ40才の若さでした。
〔絵と文:池尻 都〕